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周りを考慮したものではなく、本心を投稿します

巧遅を捨てる - 大規模接種予約をノーチェックにする現実解

ワクチン大規模接種センターへの予約システムは誰でも予約が出来るという報道が出た。

 

その報道に対して、防衛省は抗議をしている。

 

一連の流れに対して、「報道は適切だ」「脆弱性は無闇に報道すべきでない」「正しい挙動をしている」「緊急時なのだから許容すべき挙動だ」など多様な見解が出ている。

 

私は、この件に関連して以下の考えを持っている。

  1. システムの挙動は適切である
  2. "雑な挙動"を許容する判断は素晴らしい
  3. 速度優先は、日常でも有効な選択肢である
  4. 不完全さを許容しなければ進歩はない

この記事では、上記について語る。

 

システムの挙動は適切である

まず、当該システムの問題は「割り当てられていない、不適切な接種券番号を入力しても予約する事が出来る」ことである。そして、不正な予約をされてしまうと、ワクチン接種の機会が削がれる。そのため、「入力された番号が正しいかを、予約システムが確認すべきだ」という論が出てきた。

この主張は正しい。システムに問題がある事は防衛省も認めており、その問題を利用されれば接種機会が削がれる事も事実である。

 

しかし、ここで考えたいのが「完全なシステムは存在しない」という事実である。身近にある、パソコンもスマホも欠陥を持っており、日々修正されている。GoogleやAnazonにも、銀行のシステムにも、政府や軍隊のシステムにも、問題は必ず存在している。

違いは量にある。「絶対に守らなければならないシステム」には問題を減らすために、膨大な手間がかかっている。問題を発見するために時間をかけ、問題が発生した場合に備えて被害を減らすための工夫も作られている。「発生源を減らし、被害の拡大を抑える」事が重要だ。現代の力では、問題が発生しないシステムを作ることは出来ない。

従って、主眼は「どの程度手間をかけて問題を減らすか」になる。作成者のためだけのシステムであれば「問題が出たら諦めればよい」と考えて、ノーガードにするかもしれない。国や軍隊にとっては、たった一つの問題が莫大な損失になる可能性があると考えるだろう。程度はそのシステムの役割による。

また、「発見された問題を修正するかどうか」も重要な視点である。我々には常に限界がある。時間も限られているし、金が無限にある訳でもない。その中で、何を修正し、何を放置するかの判断は、そのシステムの在り様を決める。問題を無くす事に全力を注ぐか、問題を放置して新機能の開発に尽力するか、という選択も重要だ。

つまり、全てのシステムは選択を迫られている。

 

では、大規模接種のための予約システムで発見された問題は、どれほど致命的だろうか。

予約枠を占領され、ワクチンの接種数が少なくなれば、人命にも経済にも関わる。問題は大きい。しかし、誰が占領するのか?予約を占領しても、番号が一致しなければ接種を受ける事は出来ないから、無闇に売る事は出来ない。逆に、占領した組織は、国の最重要課題を犯した重大犯として強く捜索されるだろう。端的に言ってコスパが悪い。従って占領される可能性が低い。

その状況下において、「稀有な問題を解決する事は諦め、別の事に力を注ぐ」という判断は適切であり、システムの挙動は適切である。

 

"雑な挙動"を許容する判断は素晴らしい

前節で「占領される可能性が低い」と書いたが、より詳細に考える。

予約枠の占領によって利益を得るためには、枠の売却が必要である。そして、売却するためには購入者に割り当てられた接種券番号と類似する必要がある。従って、占領に使用する番号に見合う買い手を探す必要がある。また、予約日を過ぎてしまうと商品価値が無くなる。以上の理由から、占拠者は広く販売場所を広告する必要がある。すると、ダークウェブ中にある売買サイトは使えない。対して、一般人が見つけやすい以上、警察からも発見され易く、占領に使われたと判明した番号は強制的にキャンセルされるだろう。そのいたちごっこと比べれば、占拠者が得る利益は少ないだろう。

 

さて、予約システムの問題には「本当に入力を間違えたら?」という問題もある。間違えて入力した番号が誰にも割り当てられていない番号であれば、予約会場で「似ている番号だからOK」となるだろう。しかし、間違えて入力した番号が誰かのモノだった場合、間違えられた人間は予約が出来ない事になる。これに対して実際のサイトがどのように対応しているか確認していないが、恐らく、「同じ番号でも別の誕生日なら予約可能」となっているだろう。または、予約後にIDが割り当てられるようになっており、同じ番号で予約をしようとした場合に「同じ番号で予約されている。本人ならIDでログインしてから修正をするように」と促すようになっているだろう。どちらの方法にせよ、利用者によって回避出来ない状態になる可能性は低いので、最後の手段として、電話を設けておけば問題が解できる。

 

以上、現在の挙動は被害が少なく、妥協できる出来だという事を書いた。

次に、更なる高みを目指す事を考える。

 

そこで前提となるのが、「一日の遅れは、東京・大阪合わせて1万5千回の遅れになる」という事だ。7月末までに高齢者3600万人に2回打つ事が目標なのだから、大規模接種で打てる90万回は7200万回の内の1%を超える。逃したくない数だ。従って、「遅れない中での最善手」を探す事になる。

 

話題になった「接種券番号と違う番号で予約が出来る」という問題に対する直接的な解決策は、「入力された番号が配布された番号かどうか確認する」だ。これを実現するためには各自治体が配布した番号を入手し、予約システムに入力する事が必要である。また、自治体が番号を変更・追加する可能性を考慮し、連携を取り続ける必要もある。つまり、予約を受け付ける予定の、東京・埼玉・千葉・神奈川・大阪・京都・兵庫に存在する全ての自治体と協力体制を築く必要がある。自衛隊が大規模接種会場に関わる事が菅首相から発表されたのがGW直前だった事を考えると、その体制を作る時間は無かっただろう。従って、番号確認は出来ない。

 

ネットでの受付けの他に有力な選択肢は「郵便による番号配布」と「電話受付」だが、これらは人手がかかるため連携以上に難しいだろう。

 

以上から、遅らせずに始めるには現在の方法以上の事が出来ないとなる。

現在の雑な挙動が許容可能であるのだから、この不細工な状態で動かすという判断は適当であり、それを踏まえてこの挙動を許容した判断は素晴らしい。

 

速度優先は、日常でも有効な選択肢である

さて、これまでは大規模接種の予約について書いたが、このような妥協は緊急時にのみ許容されるような、緊急避難ではない。

「対処・許容可能な問題は放置し、前進する」という考え方は、スタートアップ企業を始め、ITの現場に普及している。一つの事を完璧に仕上げるのではなく、少しでも早く多くの価値を届ける。届けた価値が、放置した不都合よりも大きければ良い。例えセキュリティが犠牲になろうとも、問題が小さいのならば放置する。そして、問題が大きくなれば直す。

これは予約システムに於いてもなされた考えであり、通常時にも通用する。また、完璧主義を諦めるという思考はITに限らず、一般的だろう。

一部に、「緊急時なのだから許容可能な挙動だ」という論があるが、そもそも常に許容可能な可能性がある。緊急時であることは、強い時間制約をもたらすが、時間制約が強い場合は緊急時に限らない。

従って、速度優先は有効な選択肢である。

 

不完全さを許容しなければ進歩はない

システムに限らず、新しいものは常に不完全である。従って、不完全さを許容しない態度は、新しいものを拒否しているに等しい。

妥協は全てに優先する。

 

私ならどうしたか

以上、私の考えを書いた。

最後に「では、私ならどうするか」を思考して終わる。

 

1. 地域を絞る

配布された接種券番号で確認出来ない原因は、自治体との連携数の多さにある。数が少なければ連携が可能になる。例えば23区に限定すれば、首都圏の約20%の高齢者が対象になる。決して多くは無いが、感染が密集地域で多かった事を考えれば、経験則として23区に優先的にワクチンを配り、接種を加速する事は流行阻止の効果が期待できる。問題は政治が許すかである。

 

2. 問題が起きた後に、連携出来ない地域を切り捨てる

現行のチェックのまま予約システムを開始した後に、連携の準備を始める。そして、万が一問題が起きた場合には、連携可能な自治体の住民のみからの予約を受付ける。受付けを停止した自治体とは、連携の用意ができ次第受付けを再開する。このようにすれば、遅れずにシステムが開始可能であり、問題を先送りできる。但し、切り捨てられた利用者の混乱・苦情は避けられない。

 

3. 占領が阻止出来ない場合は新規に受付番号を郵便する

そもそも、首都圏に住む高齢者の人口を考えると、接種券番号の10桁は少なく、コンピューターの力があれば当てられる。そのため、bot対策は必須である。それを乗り越えて占拠された場合、占拠を阻止するために、桁数の多い番号を新規に発行する必要がある。その場合には、「番号を手に入れた人間から予約可能」となる。公平性の観点から不満は出るだろうが、数を優先する。

 

大規模接種センター設置が決まった後から対象地域を限定する事は難しかったと予想できるので、私なら2と3を用意し、順次実行しただろう。

 

以上、大規模接種に関連して起きた問題について書いた。

論理哲学論考、あらすじ

現実は世界である

世界は事実の総体である

事実は顕現した事態から成る

事態は対象の形式と内容の可能な在り方の連結である

従って、現実を意識することは対象を意識することである

 

像は事態の写し鏡であり、対象の連結を描写する

像は可能性を写すが、真偽は提示しない

真偽は現実との比較により判明する

つまり、像の存在は可能性の存在を示す

 

事実の論理像が思考である

論理像は命題の集合である

よって、非論理的な世界は思考不能である

命題は世界の写像である

命題は確定した要素(命題記号)と不確定な要素の複合である

複合した命題の分解は集合の文節化であり、各命題は関係しているため、個別の命題をそれぞれ取り出すことはできない

論理像の諸対象を表す命題を、名と呼ぶ

複合的な命題を一つのものとして表すとき、それを定義と呼ぶ

原子記号は命題の中にあるが、定義から操作できない(原子記号はそれで独立している)

記号と、その使用で意味を持つ

命題の中の共通項を定項(表現)、それ以外を変項とする

定項と変項で表される論理的構文は意味ではなく記述のみで表される

命題は論理空間の中に領域を規定する

論理空間は一定であるから、命題があるならば論理空間は確定している

つまり、思考された命題記号こそが思考である

 

命題は現実の像であり、記号と同一ではない

従って、言語や表現記法が変わろうと命題は変化しない

命題は論理的足場を基にするため、人が命題を理解するなら、その人は命題が真のときの事実を把握している

否定命題は否定される命題そのものではなく、そうではないという関係を持った別の命題である

 

哲学で思考可能なものを境界付けよう

命題が論理形式を指し示すことはできない以上、言葉から論理形式を語ることもできない。自ずと論理形式が導かれる

対象の内的性質も命題で導けるものではなく

内的関係も命題間の関係から成る

形式的概念は概念の当てはまる全ての対象が持つ定項とそれ以外の変項(これが対象を区別する)から成る

命題の真偽は要素命題の真偽の組み合わせから得られる

全ての要素命題の組み合わせで真となる命題(トートロジー)と、全てで偽となる命題(矛盾)は命題が語ることが無いので、無意味である

この2つが本質的な記号結合の境界である

いま、全ての命題要素があるとすると、全ての命題を構成できる(他の命題は存在しない)

 

ある命題の真から別の命題の真が帰結するとき、その命題の真は常に対象の命題の真を成立させる。その関係には二者以外の命題を必要としない

2つの命題を完全に把握できずとも、一方の成立が他方を成立させる割合を求めることはできる。但し、命題自体は完全な像であり、観測の限界が確率を必要にする

 

命題から別の命題を導くための方法を操作という

操作は操作結果に対しても適用可能であり、それ自体には意味がないことが命題との差異である(操作対象の命題と、操作結果の命題に意味がある)

全ての命題は、要素命題の操作から得られる

 

あらゆる命題の真偽のあり方は世界の一般的構造に影響する

要素命題の総体から成る範囲こそが命題の限界である

要素命題の可能な問は全てアプリオリに答えられる

つまり、「何が」あるかは論理より前にある

また、「如何に」あるかは論理から出る

論理は世界の内を満たすが、主体は世界に属さない

 

論理学における命題(論理命題)は全てトートロジーであり、トートロジーとなる関係を観察することで論理記号を得る

従って、論理命題と、通常の(意味のある)命題は同時に証明しない

論理学は世界の鏡像であり、観察される存在である

 

数学の等式は同等を示すのではなく、検討対象を指示するに過ぎない

両式の同値性は式自体に内在し、等式は何も表さない

人間の見つけた自然法則は信じる対象ではなく、可能性を知っているということである。例えば、物理法則は世界を物理学という見方を通して見た結果である

自然現象から自然法則は説明できない

世界は私の意志から独立している

世界の意義は世界の外にある

良き意志や悪しき意志が世界を変えるとき、世界の限界が変化しているのであり、事実は変化しない

死も、世界を変化させない。終わらせる。人は死を体験しない

答えが言い表せないならば、問を言い表すこともできない。答えが成り立つのは語られうることだけである

 

語り得ぬものについては、沈黙せねばならない

オリンピック中止に賛成しない理由

私は東京オリンピックを2021年に開催する事に反対しない。反対する資格が無いと考えている。

 

個人的な感情としては、オリンピックが中止されると嬉しい。他のイベントが中止を強制されている中、オリンピックが例外扱いされるのは不公平だと思う。しかし、中止すべきだという意見を積極的に表明するべきではないと考えている。

 

それは、私がオリンピックが嫌いだからだ。オリンピックがこの世から無くなる事を期待している。開催中に必ず出てくる「昨日のあれ、すごかったよね」という話題が不愉快だ。私の無関心さに対して返される疑問にはうんざりする。「興味の無い理由」という、不毛な疑問を持つ事に対する無意味さに気付かなくなる人間が多すぎる。だから、私はオリンピックの無い世界を望む。

 

つまり、私の感情はコロナとは関係が無い。また、開催派や中止派、延長派の間の議論の中心となる「どれほどオリンピックが重要か」という問題にも関心が持てない。毛ほどの価値も感じられない。冷淡に「科学的に危険である」と言うことは出来るが、利益について判断が出来ない。どれほどオリンピックが例外的な存在であるかを議論出来ない。

 

今回のオリンピック開催に関する賛否は、オリンピックの価値とコロナによるリスクの衝突であり、オリンピックの価値をゼロとする意見には意味が無い。それ故に、私は今回のオリンピックに対する意見を表に出さない。

好きな物を伝える恐怖

私は自分が好きな事を伝えることに恐怖を感じる。

 

「どんな映画見るの?」と聞かれた時のために、当たり障りの無い答えは用意している。相手に合わせて、それなりの答えを出せば良い。聞いた人間にとっても重要な質問ではないから、面倒なことも起きない。

しかし、本当に好きな映画を答えるのはマズい。知名度も人気もある、無難な作品だ。しかし、「どういう所が良いの?」と聞かれると詰まってしまうから、その映画の事は話題にしない。その答えは引かれる。

 

この問題は映画に限らない。

私が惹かれるポイントは、他の人にとっては理解し難いらしい。相手が同意出来ないだけならば問題はない。しかし、嫌悪されると困る。そして、その確率は高い。だから、私は私が世界の何を見ているのかを明かすかどうかの判断に、相当に気を使う。普通の感覚しか理解できない人間には話さない。

 

異様な人間を見る時の空気が怖い。

懐古に対する嫌悪について

私は昔を懐かしむ事が嫌いだ。

多くの人間は若い頃に触れていたものに良い印象を持つ。そのため、店はターゲットが学生時代であった頃の流行歌を流す。広告はその時代の有名人を使う。笑い話の鉄板は世代により大きくずれる。ゲームのコラボ相手ですら、その傾向があるようだ。

必然、私が触れるものには、広告であれ趣味であれ、昔の流行を意識した要素が含まれている。

しかし、私は昔の物に不快感を覚える。五年も前の出来事を、さも最近かのように語りたくない。一年前の歌と新曲を同列に語りたくない。半年前の仕事を、直近の成果として披露したくない。

この性格はソフトウェアエンジニアという職業には役立つ。特に私が専門とするweb分野の技術的な流行は、半年・一年で変わる。従って、三年も前の技術は「前時代の非効率な方法」になり、業界として、考え方や技術を更新し続ける姿勢が支持される。これは、過去を捨て続ける私によく馴染む。

しかし、普段の生活ではそうは行かない。人と話せば思い出話。店内BGMは2000年代の流行歌。ネットを見れば往年のアニメや漫画のパロディ。各々が趣向を凝らして懐古する。

昔に対して肯定的なイメージを持てない私には、それらから受けているであろう感情を享受出来ない。

twitterでの長文は面倒なので


通常は上のアカウントを使用していますが、長文を投稿するために文章を分けるのが面倒になったので、長文はここに書きます。

口調を「である調」にするか「ですます」にするかは未定