論理哲学論考、あらすじ
現実は世界である
世界は事実の総体である
事実は顕現した事態から成る
事態は対象の形式と内容の可能な在り方の連結である
従って、現実を意識することは対象を意識することである
像は事態の写し鏡であり、対象の連結を描写する
像は可能性を写すが、真偽は提示しない
真偽は現実との比較により判明する
つまり、像の存在は可能性の存在を示す
事実の論理像が思考である
論理像は命題の集合である
よって、非論理的な世界は思考不能である
命題は世界の写像である
命題は確定した要素(命題記号)と不確定な要素の複合である
複合した命題の分解は集合の文節化であり、各命題は関係しているため、個別の命題をそれぞれ取り出すことはできない
論理像の諸対象を表す命題を、名と呼ぶ
複合的な命題を一つのものとして表すとき、それを定義と呼ぶ
原子記号は命題の中にあるが、定義から操作できない(原子記号はそれで独立している)
記号と、その使用で意味を持つ
命題の中の共通項を定項(表現)、それ以外を変項とする
定項と変項で表される論理的構文は意味ではなく記述のみで表される
命題は論理空間の中に領域を規定する
論理空間は一定であるから、命題があるならば論理空間は確定している
つまり、思考された命題記号こそが思考である
命題は現実の像であり、記号と同一ではない
従って、言語や表現記法が変わろうと命題は変化しない
命題は論理的足場を基にするため、人が命題を理解するなら、その人は命題が真のときの事実を把握している
否定命題は否定される命題そのものではなく、そうではないという関係を持った別の命題である
哲学で思考可能なものを境界付けよう
命題が論理形式を指し示すことはできない以上、言葉から論理形式を語ることもできない。自ずと論理形式が導かれる
対象の内的性質も命題で導けるものではなく
内的関係も命題間の関係から成る
形式的概念は概念の当てはまる全ての対象が持つ定項とそれ以外の変項(これが対象を区別する)から成る
命題の真偽は要素命題の真偽の組み合わせから得られる
全ての要素命題の組み合わせで真となる命題(トートロジー)と、全てで偽となる命題(矛盾)は命題が語ることが無いので、無意味である
この2つが本質的な記号結合の境界である
いま、全ての命題要素があるとすると、全ての命題を構成できる(他の命題は存在しない)
ある命題の真から別の命題の真が帰結するとき、その命題の真は常に対象の命題の真を成立させる。その関係には二者以外の命題を必要としない
2つの命題を完全に把握できずとも、一方の成立が他方を成立させる割合を求めることはできる。但し、命題自体は完全な像であり、観測の限界が確率を必要にする
命題から別の命題を導くための方法を操作という
操作は操作結果に対しても適用可能であり、それ自体には意味がないことが命題との差異である(操作対象の命題と、操作結果の命題に意味がある)
全ての命題は、要素命題の操作から得られる
あらゆる命題の真偽のあり方は世界の一般的構造に影響する
要素命題の総体から成る範囲こそが命題の限界である
要素命題の可能な問は全てアプリオリに答えられる
つまり、「何が」あるかは論理より前にある
また、「如何に」あるかは論理から出る
論理は世界の内を満たすが、主体は世界に属さない
論理学における命題(論理命題)は全てトートロジーであり、トートロジーとなる関係を観察することで論理記号を得る
従って、論理命題と、通常の(意味のある)命題は同時に証明しない
論理学は世界の鏡像であり、観察される存在である
数学の等式は同等を示すのではなく、検討対象を指示するに過ぎない
両式の同値性は式自体に内在し、等式は何も表さない
人間の見つけた自然法則は信じる対象ではなく、可能性を知っているということである。例えば、物理法則は世界を物理学という見方を通して見た結果である
自然現象から自然法則は説明できない
世界は私の意志から独立している
世界の意義は世界の外にある
良き意志や悪しき意志が世界を変えるとき、世界の限界が変化しているのであり、事実は変化しない
死も、世界を変化させない。終わらせる。人は死を体験しない
答えが言い表せないならば、問を言い表すこともできない。答えが成り立つのは語られうることだけである
語り得ぬものについては、沈黙せねばならない